第五回 大野克夫先生 プロフィール 大野克夫
1939年9月12日、京都生れ。
京都・大阪のジャズ喫茶を中心に、スチールギター奏者としてデビュー。 ‘62年、ザ・スパイダースのメンバーとなり、10年間活躍する。
解散後、沢田研二、萩原健一等と共にPYG(ピッグ)を結成。その後、井上堯之バンドに参加し、解散後大野克夫バンドを結成。
作曲家としては、沢田研二に「時の過ぎゆくままに」 「勝手にしやがれ」等のヒット曲を提供、特に'77年「勝手にしやがれ」は、レコード大賞・歌謡大賞他、各賞を受賞。
また、TVドラマのサントラ盤でも「太陽にほえろ!」 「傷だらけの天使」など数多くを手掛け、'96年スタートの人気アニメ「名探偵コナン」の音楽も担当するなど幅広いジャンルで活躍している。



[ INDEX ]
●どんな楽器も自由に使いこなした少年時代は、『堀川の神童』と謳われる
●地元のジャズコンテストでは史上最年少!!高校生バンドで優勝し、周囲の大人たちを驚かせる。
●十代でプロのバンドに参加。『京都に名スチールギター奏者現わる!』と、業界でも有名に
●ザ・スパイダースに入団。そして黄金のGS時代が到来―
●歌謡曲の作曲でデビューするや、「勝手にしやがれ」でたちまち音楽賞総どり―
●TVドラマ「太陽にほえろ!」から、人気アニメ「名探偵コナン」まで、知られざるサントラ盤の名手!!
●人生生涯の趣味は、音作りとフィッシング―
●これからの夢、抱負は? ―



●どんな楽器も自由に使いこなした少年時代は、『堀川の神童』と謳われる
京都の老舗「呉服屋」で、5人兄弟の末っ子として育った大野先生。父親は、本業のかたわら尺八の名手で、母親も筝の奏者。姉はピアノをたしなみ、兄達は大のジャズ好きというように、大野家の家庭には和洋折衷の音楽が常に飛び交っている環境にあったとか…

まずは、その頃の楽しい思い出からお話しして頂きました。
「いま思い出すと、(家には)何であんなに色々な楽器があったのかなァと… マンドリンはあるわ、手風琴(=アコーディオン)はある。勿論ピアノはありましたけど。あとサーカスの球乗りの道具まで置いてあったり(笑)。…そういう遊び好きの親父だったんですね。そこで、(最初に)耳に聞こえてきたのは、2才位の時かな…姉のピアノでしたね。僕は何をしていたかというとピアノから飛び下りる。(鍵盤を)足で踏んずけて飛び下りるぐらいのこと…そんな所から始まったんです。でも姉のピアノを聞いていると、間違いが多いんですね(笑)。本人は気が付かずに譜面をサァーっと通り過ぎるんですが…聞いてる僕のほうが、『あッ、ここ!』とか気付くんです。 ところが、今度は自分でピアノを弾いても、例えば『エリーゼのために』なんかは、左指(のオクターブ)が届かないもんだから、下(の音)は大きくなったら弾こうということで、2つ目の音から弾いていた…そんな事を記憶してますね。」
他にも、バイオリン、ラッパといった洋楽器はもとより、尺八、三味線、筝など和楽器に至るまで『家には楽器という楽器がゴロゴロしていた』とおっしゃる大野先生。また、それらは『どういう音がするんだろう?』という興味でいじっているうち、どんな楽器もこなせる様になってしまったのだそうです。

では、そうした色々な趣味をお持ちだったお父様のしつけのほうはいかがだったのでしょう?
「まったく、“我関せず”というか、こうしちゃいけない、ああしちゃいけない ―――というものは何もなかったですね。勉強しろ!なんて言われないから、よけい自分で勉強しなきゃいけない…。でも上の兄達は、けっこう叱られていましたね。何か家の物がなくなったと言うと、兄が質屋に持っていったりする事があって(笑)。…それで皆並ばされて怒られる。でもそれが、しつけになっていたんでしょうね…。あぁ、こうやったら怒られるんだ、と。僕は末のほうだから直接何か言われるというのは、あまりなかったですね。」
兄弟ゲンカなどは、されました?
「三つ上の兄とはやりましたね。殴り合いまではいかないけど…。向こうは手加減しているんだけど、こっちは手加減なしに。もうワイシャツやぶったりとかね(笑)。 …やぶった後は、悪い事したなって思ったけど。」
さらに大野先生の秀才ぶりは、小学校2年生の時担任だった音楽の先生から、ト音記号(高音部記号)・ヘ音記号(低音部記号)などの基礎を教えられ、早くも小学校4年生の時には、当時の『卒業生を送る歌』を作詞・作曲までしてしまったというエピソードも残されています。

当時を振り返られて、作曲はそれほど難しくはなかったのですか?
「そうですね、…最初2年から3年の時、2部形式とか4部形式とかね。簡単なメロディーがあって、次にちょっと違ったメロディーがあって、次にサビみたいな違う展開のものがあって、またA’に戻って終わる。「AA’BA’」の基本形ですよね。というのも…小さい頃から姉のピアノを聞いたり、親父からは尺八、兄達のジャズレコードを聞いたりしていて、それと小学校で習った基本形とが合致したんでしょうね。『あぁ、こういうものだなぁ』って…。だから、その頃はいくらでも作れるわ。という感じでしたね。」
ところで、小さい頃から夢中だったことに魚釣りもあるそうですが?
「当時、仲間たちと一緒に二条城のお堀へ(釣りに)行くんですが…。
本当は、あそこ(お堀)は釣っちゃいけないんです。だから見つかると怒られるんですが、警備の人が注意しに来たらあわてて道具を片づけて逃げるんです。 そのスリルが楽しくてね(笑)。でもそのうち、お金を払えば釣らせてくれるという事が分かって…。小さな紙にハンコが押してあるものを買う訳ですよ。あのお金、誰が持っていくんだろうって…(笑)。 そのあとに、琵琶湖へなんかも、よくフナ釣りに行ったりもしましたね。」
そして、中学校では数学部に入られたそうですが、数学的なものにも興味をおもちだったのですか?
「あまり意識はしていませんでしたけどね。たまたま担任が数学の先生で、『大野君、数学やりなさい。』と言われて、『ハイ!』とか言って、そこから数学部が始まったんですね。僕はね、そもそも数学と音楽と体操 この三つは、わりと共通するところがあるな、と思ってるんです。体操はスポーツ感とかリズム感という点で、音楽や数学も入ってくるのかなって。少なくとも文化系じゃない、何かあるんじゃないかと思うんですけどね…。」
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●地元のジャズコンテストでは史上最年少!!高校生バンドで優勝し、周囲の大人たちを驚かせる。
京都の名門、堀川高校へ進学されてからは、いよいよ才能開花。その後、音楽の道に進まれるきっかけとなられたそうですが、次には、そのあたりのエピソードをお話し頂きました。

ところで、高校時代は軽音楽部でご活躍されたそうですね?
「高校に入ると、なんか(校舎から)好きな音楽が聞こえてくるんですよ。当時、軽音楽クラブというのがあって、そこには2年生がいなくて3年生だけの集まりで…。クラリネットがいたり、スチールギターの人がいて、“ペニーグッドマン”(のナンバー)なんかをやってました。ところが、ピアノがいなくて『大野君、ピアノ弾けるの?』 『弾けますよ』と一緒にやってました。そこで2年生になった時には、3年生がいなくなっていよいよ我々の天下だ!という訳で、中学(の時)の数学部の連中を集めてバンドを作ったんです。
“ウエスタンバンド”で、僕はスチールギターを担当したんですが、実はその前の1年生の時に、3年の先輩が持っているスチールギターにえらく興味を持ちましてね…。手作りで同じものを作ってもらったんです。」
そこではじめて、ジャズコンテストに出場された訳ですね?
「“京都ジャズ合戦”というのを毎年やってたらしいんですけど、『じゃあ、一回出てみよう』というんで、5人で出場したんです。演奏したのは『誇り高き男』(当時の西部劇サントラ盤)という曲で、口笛のところをスチールギターの一番高い音で出して…。もう一曲は何をやったのか憶えてないけど、服装は、黒ズボンに白のワイシャツ、グリーンの細い棒タイをリボンに結んで、テンガロンハットも被って。
あと他(の出場者)には大学生もいたりして、同志社大学はジャズのフルバンドだったりしましたが…そこで、一等賞になったんです。それから、当時審査委員長をされておられた浅田憲二さんの家に呼ばれたりして『キミたち、やるねェ!!』と褒められて、ちょくちょく遊びに行っていましたね。」
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●十代でプロのバンドに参加。『京都に名スチールギター奏者現わる!』と、業界でも有名に
ジャズコンテストの優勝がきっかけで、そのテクニックがプロの目にもとまり、当時ロカビリーでは京都の代表格だったゲーリー石黒氏にスカウトされる。そして、高校卒業後“サンズ・オブ・ウエスト”のスチールギター奏者としてプロ入り。昔の新聞記事によれば(ゲーリー氏いわく)、『遊びに来ないかと声をかけたら、またたく間に僕らのレパートリーをコピーしてしまったのにはびっくり。僕にも分からない程のテクニックでした。』 また当時、ゲーリーバンドの専属司会者だったのが浜村淳氏で(浜村氏いわく)、『目のクリッとした美少年が、腕前は三味線でスターダストを弾くほど…』と絶賛しています。

続いては、十代にして早くもプロ入りするまでのいきさつからお伺いしたいのですが?
「たまたまゲーリー石黒とサンズ・オブ・ウエストの演奏をベラミ(ジャズ喫茶)に見に行くと、素敵な赤いダブルネックのスチールギターを使ってるんですよ。僕が今使ってるのより『これまたいいなァ』と思って、話しかけたところ…その人(プレーヤー)が、そろそろ職を変えたいので『代わりをやってくれませんか?』と。『だったら、そのスチールギターをわけてくれませんか…。』と、それ(スチールギター)欲しさに入ったのが一番のきっかけでしたね(笑)。その後、『高校を卒業したら、バンドに入ります』という約束で、3年生の夏休みはバンドの手伝いに行ったり、ゲーリーさんの家に通って、レパートリーを練習してました。でも技術的には、僕より2才年上でギターの福田利夫さんと言う人がいまして、彼のテクニックは物凄かったですよ…。全国に知れ渡ってるくらい。日本でも“チェットアトキンス”を弾けるギターリストは福田さんか、スウィング・ウエスト(現・ホリプロ会長の堀威夫氏がリーダー)でベースを弾いていた植田さんぐらいだとか、そういう噂がありましたからね…。」
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●ザ・スパイダースに入団。そして黄金のGS時代が到来―
『三つの顔・その(1)…天才キーボードプレーヤー』

'61年5月、リーダーの田辺昭知氏がザ・スパイダースを結成するが、大野先生はその1年半後にメンバーへ加わる。当時の入団までのいきさつを、阿久悠氏の著書『夢を食った男たち』によれば〈(田辺氏は)新しいスパイダースを成功させるには、この男(大野先生)がキイマンになると見込んだ。それが京都の天才・大野克夫である…。〉と書かれている。また、田辺氏自身も〈スチールギターはバーを持って弾くけど、大野の音の切れはギターみたいだった。能力には自信もあったのに、声をかけてから一年半も待たされた。〉とおっしゃっていらっしゃいますが…。

そもそも、まずは田辺さんとの出会いからお聞かせ願いますか?
「京都のジャズ喫茶ベラミで“スウィング・ウエスト”と共演した時が、田辺さんとの最初の出逢いでした。例えば僕が難しい早弾きの曲をコピーして来て、そのレコードを福田さんに渡すと、次の日にはステージで演奏可能でしたので共演の時に『チビちゃん!(福田さんにニックネーム)あれやって!』とおどかしの早弾き演奏をする訳です。すると、スウィング・ウエストも『あッ、やられた!』と。田辺さんもそんなところを見てられたんじゃないですかね。」
そして、誘われてから1年半もためらわれたというのは、どういう理由からだったのでしょう?
「たしかに田辺さんがおっしゃってた様に、ゲーリー石黒さんに遠慮していたのも一つありました。それにもう一つは、当時バイオリンの木村さんと言う人が1年位で東京から帰って来られて、その人が『東京へ行くなら、腕をみがいて行けヨ』って、その一言で。誘われたからハイッて行くんじゃなくて、もっと徹底的に腕をみがいて行ってやろうと…だからそれだけ時間がかかったんです。そして2回目(田辺さんから)誘われても、まだ返事が出来なかったのは、いよいよゲーリーさんに言わなければいけない。『明日からやめます』じゃぁダメだし、半年という期間を持ったんです。それで次に会った時、『もうスパイダースが始まるんだけど…』と言われて、『7月なら行けます!』と返事して、ついにゲーリーさんに話をしたんです。」
それから10年間位のあいだ、世はまさにグループサウンズの全盛期を迎えられる訳ですが…
スパイダース時代のエピソードとしまして聞くところではギターの裏演奏までされてたとか?
「もとスリー・ジェット(ホリプロ所属のヴォーカルグループ)のヴォーカルだった井上堯之はスパイダースへ入ってからギターに転向したので、エレキ(ギター)のテクニックが今ひとつだったんです。でも当時はベンチャ―ズもやらなきゃならない…スパイダースはベンチャーズが大嫌いでしたが、そうも言っていられない。そこで、あの♪テケテケテケを演奏する時、彼がさり気なくアンプの方へ回って、チューニングする様なふりををする…その時、僕が代わりに♪テケテケテケテケーとスチールギターでやる訳。まぁ、良きも悪しきもそうゆう時代でしたからね。(笑)」
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●歌謡曲の作曲でデビューするや、「勝手にしやがれ」でたちまち音楽賞総どり―
『三つの顔・その(2)…時代をになうヒットメーカー』

作曲家としては、作詞・阿久悠氏とのコンビによる沢田研二の一連のヒットシリーズ「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「サムライ」等々−まさに沢田研二のヒット曲全盛時代を作り出されてこられました。

続いては、大野先生のもうひとつの顔である、時代をになうヒットメーカーとして、沢田さんとの思い出などお伺いしてみました…
「彼(沢田研二)は、ヴォーカルとしては絶品の楽器ですね。(僕が)まだスパイダースの頃から、彼の声の強さを羨ましいと思ってましたね。日劇ウエスタンカーニバルなんかは、ぶっ続けで一週間もあるんですが、スパイダースのマチャアキ(堺正章)なんかは、3日目位で声がかれちゃうんですよ。ところが彼は、まったく平気で、その強さたるや…物凄いものがありましたね。」
大野先生が、歌手・沢田研二の曲を初めて手掛けられたきっかけは、TVドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌「時の過ぎゆくままに」からでした。 しかし、この曲が大野サウンドに決まるまでには、当時、阿久悠氏の作詞を、当代の人気作曲家たち6人が競作の末、みごと大野作品が選ばれたというだいそれた逸話が残されています…。

その時のいきさつからお聞かせ願いますか?
「当時、久世さん(ドラマ演出家の久世光彦氏)のところに、井上堯之と一緒に打合わせに行ったんですが…彼はコンペ(競作)と知ってカンカンになって怒りましてね。(笑)『とんでもないよッ!』て。でも僕は、打ち合わせの段階で早く(家へ)帰りたいなって…というのも、もう頭の中で(作曲した)メロディーが充満してるんですよ。だから(久世さんの)話し半分位聞いて、もう家へ帰ったらすぐ作って、あくる日持って行きました。さすがに久世さんも『もう出来たの!?…』と驚いていましたけどね。(笑)」
その後は、作詞家・阿久悠氏とのゴールデンコンビにより、沢田研二の大ヒットブームを巻き起こす訳ですが…そもそも、沢田さんの曲を作られる時は、どの様なことをイメージされたのでしょうか?
「彼(沢田研二)の曲を作る時には、まず歌う姿が頭の中にでてきて…テレビの映像ですね。 どういう音程から声を発しているか?が聞こえてくるんですよ。この音だッ!ていうそんな所から発想するんですけどね。
例えば“勝手にしやがれ”だと、あまりデレっとしたものじゃあない、ちょっと強いもの。それに阿久さんとのコンビは、殆ど詞が先(に作られること)が多かったですね…
当時“勝手にしやがれ”というタイトルが、ちょっとキツいんじゃないかって言うんで、もしボツになった時、もうひとつ代わる曲を用意しとかなきゃならない。そこで2曲目はメロ先(=先に作曲すること)で作って、詞をあとでつけた…それが、次に出すシングルのB面になって、結局(1曲目の)『勝手にしやがれ』を出すことになった。
でもあの時は、『勝手にしやがれ』のレコーディングを明日にひかえて、普通ならアッという間に出来るはずの大野克夫が…出来ないんですよ、曲がね。
井上堯之に『あすレコーディングだけど、まだ出来ないんだよ…』って言ったら『出来なきゃしょうがない。スタジオ、キャンセルだよね』と。
そういう話をしながら家に帰ってピアノに向かうと、あっという間にイントロが出てきた…ちょっときわどかったですね。
でもそんな具合なのに、当時沢田研二のLPを年間2枚も出していましたからね。僕は『2枚は無理じゃない…1枚でいいんじゃない?』と言ったんだけど、当時所属していた事務所が、いや2枚出すと言って譲らなかったですね。」
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●TVドラマ「太陽にほえろ!」から、人気アニメ「名探偵コナン」まで、知られざるサントラ盤の名手!!
『三つの顔・その(3)…話題のサウンド・トラック盤作曲家』

'72年(昭和47年)スタートした、日本テレビ系放送のTVドラマ「太陽にほえろ」の主題曲を担当された大野先生。当時このテーマを人気バンドのPYGが演奏したことから、ドラマ共々テーマ曲も全国的に大ヒット!!そして2年後、萩原健一主演のTVドラマ「傷だらけの天使」(同じく日本テレビ系放送)のテーマ曲も担当、さらに6年前からは、人気TVアニメ「名探偵コナン」の音楽とまさに異色のサウンド・トラック盤作曲家としてのご活躍もされていらっしゃいます…。

大野克夫・三つめの顔は、知られざるサントラ盤作曲家として、まずは「太陽にほえろ!」が始まった頃のエピソードからお伺いしてみました。
「その(企画の)話があってから、たまたま5日間位親戚の家に遊びに行っていて、ピアノで確か5曲位作ったと思うんですよ。それを、オールラッシュを見たあとの打合せで、笛か何か持っていって…『こんなメロディーが出来ているんですが?』って、聞かせたんです。
そしたら岡田さん(元日本テレビプロデューサー・岡田晋吉氏)や梅浦さん(元東宝プロデューサー・梅浦洋一氏)が『ああ、いいじゃない!』って言ってくれたんです。
でも一番最初の打合せの時、岡田さんに『これは何クールですか?(テレビ業界用語で1クールとは3ヶ月間放送のこと)』と聞いたら、『半永久的だ!!』と言われて、初めて覚えた業界用語使って恥をかいた記憶がありますけど(笑)…。
こういうドラマの音楽をロックグループが演奏したのはこれが最初なんです。それまでは、スタジオミュージシャンの弦(楽器)だったり、ジャズミュージシャンによる―――いわゆる劇判だったりするんですが、「太陽にほえろ!」の場合このロックサウンドが良かったんだと思ってますね。
でも、石原裕次郎さん(=ドラマの主役)も、最初こういう音楽がタイトルになるんだと聞いた時、『えッ!』とびっくりされていたそうですよ(笑)。
ショーケン(萩原健一)の推薦で、こういう音楽になったと聞いて、納得したらしいですけどね…ショーケンの頭の中には、こういう音楽があったんでしょうね。
それに、そもそも「太陽にほえろ!」の音楽にしても、最初、岡田さんや梅浦さんとショーケンが打合せをした時から、僕の話をしておいたらしいんですよ。」
ところで、お話にも出ていた萩原健一さんとは、ずいぶん昔からのおつきあいと聞いていますが?
「彼がテンプターズの頃から、同じプロダクション(当時、スパイダクション)でしたから…。
それに、彼は面白いところがあって、いきなり電話かけてきて『曲作って欲しい』とか言ってね…いま、下の喫茶店に来ているなんて言うんですよ。
あるいは突然、夜中に誘われて、一緒に車で京都へ行ったこともあります。その時、自分でもけっこう好きな曲ができていて…『ロンリー・ウルフ』って言うんですけど、そのデモテープを何の気なしに車の中で聴いてたんです。すると、一緒に聴いていた彼が『いいなァ…これ!!』って、有頂天で喜んでるんで、『ごめん、実は沢田の曲なんだ』と言ったらガッカリ。悪いことをしてしまったと思っています…。」
そしてこのたび、いよいよ14年ぶりに『太陽にほえろ!2001年』がスペシャルドラマとしてよみがえった訳ですが、ドラマの人気もさることながら、テーマ曲がなんと30年ヒットし続けているのも音楽業界では大変な記録となるのだそうです…。

今回のテーマの特色としては、どういったところでしょうか?
「'97年と'98年にも、2度スペシャルバージョンとして出しましたが、その時はかなり(アレンジを)いじった音楽にしている。ところが今回は、最初に戻ったシンプルなもので行けないかなと思って…梅浦さんに相談してみたら『たしか、1分50秒にイントロ20秒だっけ?』と言われたんで、ピンときました。イントロが20秒と決まったら、あとは決まってしまうんですよ。
だから、昔聴いた方にとっても懐かしいと思いますよ…。
それから、新人刑事のテーマについては、今までやった事ない様なものになっているので、ぜひ聴いてみて下さい。」
そしてもうひとつ、日本テレビとの関わりで大野先生といえば、人気アニメーション「名探偵コナン」(読売テレビ系)の音楽をすでに6年前から担当して頂いております。
その間、発売されたCDは全10枚にのぼるそうですが、このコナンに対する思い入れのほどはいかがでしょうか?
「子供向けの番組だというのと、アニメだというのと、コナンがかわいいというのとで、何か自由に作れるという感じですね。
最初この話を頂いた時、頭の中は“シンセサイザー”の音でもう出来上がっていました。でも、シンセだけじゃダメだから… やっぱり将来の子供たちに向かって『生音ってこういうもの』 『生ギターってこういうもの』 『手で弾く音楽はこういうものだ』と伝えてあげたくて、思わず… “ハモンド”って声を出したら『行きましょう。それで!』とスタッフの言葉が返ってきました。
(仕事の)依頼者側としては、よほど「太陽にほえろ!」のイメージが強かったらしい。それで、メインテーマには絶対♪タランタランタランを使わないぞってやってたんですが、中には『ぜひアレを…』というリクエストも多くある。だから形をかえて作っても、やはりあの形は変わらないんですよ…。
譜面上は変えても、聞いている人には同じに聞こえる。この前も、'97年の「太陽にほえろ!」のテーマを初めて聞いた子供が、『この曲、コナンのまねしてる!!』って言ってるんです(笑)…。」
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●人生生涯の趣味は、音作りとフィッシング―
『仕事だと思うと何か制約される…音楽の仕事も、趣味のうちだと考えたいな』とおっしゃる大野先生ですが、続いては人生生涯の楽しみとしていらっしゃる、音作りとフィッシングの話題についてお伺いしました。

ところで聞くところでは、簡単なお仕事を頼まれても先生のご性格からかなり手のかかった作品にしてしまわれるというお噂なんですが?
「たとえば(仕事が)歌もののメロディーにしても『ピアノとハミングでいいですよ』って頼まれても…ピアノの弾き語りじゃ、自分が聴いたとき面白くないし、聴きたくない。だからなんとか聴くにたえるものって、カラオケを作ってしまったり。詞が出来たらすぐ歌いたい。そして歌ってしまう。そんなところから、デモテープ作りに凝ってしまうんですよね…(笑)。
ただ発注を受ける際、僕の方も『ピアノメロ(ディー)だけでいいですか?』って一応言っておいて(相手を)安心させて、余裕があると『またやってしまいました。』ってね(笑)。本当は向こう(発注先)も、『困るんですヨ!』と言いたいんじゃないかな…。
だってアレンジャーに持って行く時、メロディーだけの方が色々と発想がふくらむのに、『また、やってくれたな…。』という声は蔭ながら聞こえてくる。でも、ついつい自分が楽しみたいから作ってしまうんですよ…(笑)。」
もうひとつのお楽しみのフィッシングについて、本格的にはいつ頃から始められたんでしょう
「'86年の時ですから、15〜16年前ですか、初めてカジキマグロのトーナメントに出場して500ポンド(約227kg)の大物を射止めたんですよ…。重さは小錦ぐらいで、馬か牛の腹ぐらいの太さがありましたね。それがきっかけで、面白いと思いやみつきになりました。でも、あれはただのスポーツじゃない。大変な重労働ですね―――というのも、(釣る時の)針は大きいんですが、その尖った先がちょっと引っ掛かってるだけで、たぶん1mmも入っていないでしょう。そんなもんで、どでかい魚がこっちへくるんですからね。また敵もさるもので、泳いでゆるめて放そうとする。それがこわいので、たえず緊張感がある…。
だから釣りの魅力というのが、今やっとわかりましたね。たえず音楽のことが頭の中にあるので、一回そこから離れて“無”になってしまえるというか…魚と対話できるというか…アジ釣りの時なんかは、何とかエサを食べさせようと試行錯誤しながら、それ(釣り)だけに没頭できる時間が面白いですね。」
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●これからの夢、抱負は? ―
「僕は(将来のこと)何も決めないんです。自分を制約しないで、いつも自由にいたいと思いますね。決めてしまうと、がんじがらめでいいものが見えてこない…。だから一つの仕事が終わると、しばらく何もしない。ボケッと…そのボケッとした中で作る仕事以外の音楽で、いずれCDを出したいですね。
でも今は、この仕事が終わったらハワイへフィッシングに行くのが楽しみかな…。」
一見、物静かで理知的な語り口の大野先生でしたが、その奥には「勝手にしやがれ」の様な大胆かつ情熱的な発想もお持ちでいらっしゃいます。
今後も素敵な大野サウンドを、大いに期待しております…。
インタビュー/構成小峰 正博
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