作家インタビュー

開かれていく作詞家への道

第一企画は国際部という外資系のクライアントの広告制作の部署でした。「会議も英語だけど大丈夫?」って、ロサンジェルスの有名なD.D.B.という制作プロダクションから移ってきたばかりのクリエイティヴ・ディレクターにきかれて、「英文科だから大丈夫です」って答えて、CBS・ソニーの仕事で3つだけ書いたジャパンタイムズに掲載された広告を見せたら、その室長が「OK、入れるよ」って(笑)。「あの、 試験とか無いんですか?」ってきいたら、「いや、これが試験だから。ぼくが決めるわけですよ。ぼくが、あなたのボス」(笑)って言う。この人がいたから、第一企画に入ることが出来たんですね。かなり変わった人で、すごく気があいました(笑)。蛯原さんという伊達男の方です(笑)。日本ポラロイドとか、ジョンソン&ジョンソン、ワーナー・ランバート、あ、シーバス・リーガルのコピーも書きましたね。それでコピーライターとして最初にして最後の広告賞ももらいました。楽しい2年間でした。一度、蛯原さんから「売野さんのコピーは詩のようで、外資の広告には不向きです。必要なのはもっと太いドカンとしたヘッドラインです」と言われたことがあってよく覚えてますが、この助言がいまでも生きている気がします、タイトルと歌詞という棲み分けをして。

1978年に、EPIC・ソニーが設立されることになって、東急エージェンシー・インターナショナルから連絡があって、戻ってきてくれないかという話になった。EPIC・ソニーの設立にあたってコピーライターが要るからと。そこで、作詞家になるとはその時は思っていないんだけど、結果的には作詞家になる道が開かれることになるんですね。

その頃、ぼくは友人と一緒に、『LA VIE』という、いまで言うインディーズの男性ファッション誌を編集していて、ともかく時間がなかったので「仕事のない時は会社に行かなくていいという契約にしてくれませんか?」とお願いしたら、東急の今井さんというクリエイティヴ・ディレクターが「条件は何でも会社にのませるから、来月から来い」って言うので「わかりました!」と(笑)。

それでEPIC担当として、ロゴマークやシンボル・カラーとか、EPIC・ソニーというブランドの立ち上げから、EPICのオフィスに何も無いところから関わることになったんです。コピーライターはぼくひとりでしたから、洋楽も邦楽も書いてました。そのひとつがシャネルズのコピーだったのですが、ぼくが新聞用に書いたアルバムの発売告知のコピーを読んだ担当ディレクターの目黒育郎さんに「あなたのコピーは面白いから詞も書ける気がします。書いてみませんか?」って言われて、これが作詞家になったきっかけですね。そこまでに回り道したような、あるいは、それが近道だったかはわからないですけど(微笑)。去年書いた『砂の果実~80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』という本に、当時のことが詳しく書いてありますから、興味のある方はどうぞお読みください。

売野雅勇

この時に作詞をすることになったのが、河合夕子のアルバム『リトル・トウキョウ』 (1981年5月21日発売)。それよりも発売日が先の、「麻生麗二」というペンネームで書いた、シャネルズのアルバム『Heart & Soul』(1981年3月21日発売/EPIC)に収録の「星くずのダンス・ホール」、「スマイル・フォー・ミー」がデビュー作になっていますが、河合夕子の方が仕事としては先行していました。
その翌年、日本テレビ系『スター誕生!』からデビューした中森明菜の2ndシングル「少女A」が最初の大ヒット曲になります。
ここからはその「少女A」をはじめ、日本テレビ音楽が著作権を有する楽曲の中からピックアップしてお話を伺います。

「少女A」中森明菜
(1982年7月28日発売/ワーナーパイオニア)

「少女A」は詞先だったんです。で、芹澤廣明さんではない他の作曲家の方が最初に曲をつけてくださった。いまの「少女A」とは全然違う「少女A」です。それは、ボツになってしまったのだけど、2週間くらいして「詞だけ生きてます」と再びレコード会社から、ぼくが所属していた作家事務所に連絡があり「別のメロディがつけられますか?」とオファーされたという話を知らされました。事務所に作曲家は数名いましたが、そのひとりが芹澤廣明さんでした。

それでマネージャーが芹澤さんのストック曲から3曲をピックアップして、「ディレクターに聴かせるので、一緒にワーナーパイオニアに行ってくれ」と連れて行かれたんです。そのワーナーのディレクターが島田雄三さんです。石黒くんという若いマネージャーと3人でその3曲を聴いたわけです。3曲ともマイナー8ビートの曲で、芹澤さんがギター1本で歌っているデモテープでした。芹澤メロディーって世界一アクが強いメロディなので、どのメロディにも芹澤さんの署名がしてある。ブランド・マークが刻印されているわけです。3曲聴き終えたところで、島田雄三さんから「売野さん、作詞家としてはどれがいいですか?」って訊かれた。ぼくは歌詞を嵌め直す必要があるので、なるべくオリジナルの歌詞が損なわれないという観点から「2番ですね」と答えた。ぼくは2月22日生まれなので、そこだと(笑)。そうしたら、島田さんが「ぼくもそう思います」って(笑)ぼくも調子がいいから「ですよね!」って(笑)。この曲だけ漫画家の方が書いたという「シャガールの絵」という詞が付いていたんです。「シャガールの絵」も詞先で芹澤さんが後からメロディを付けた作品です。

このメロディに、ぼくが詞先で書いた歌詞を、今度は曲先みたいにして嵌め直すことになった。でも、あっけないほどまるで難しくなくて、奇跡的にといっていいくらい、曲に詞がうまくハマるんですね。全体の構成が似ていたんだね。Aメロの長さとか、サビのシンプルさとか。なぜかというと、両方とも素人っぽい詞の構成なんです。つまり、小節数のカウントが出来ていなくて、原稿用紙の升目の数を目安に書いているんですね。横1行が20文字ですから、そのあたりで。ぼくも詞先で書いたのは、それで5回目くらいだったから、まだ書き方を充分知らなかったんだ。

やたらAメロが長いんです。そして貧弱なサビ(微笑)。「じれったいじれったい」というサビのキャッチーなフックは、ぼくのオリジナルの詞には無くて、『シャガールの絵』の歌詞の中のサビの最初の部分が「ねえあなた、ねえあなた」が2回繰り返すサビだったんです。

やたらにここは来るなあと思って。ここがキモなんだろうなと思って、サビの書き方を勉強しようと思って歌本を開いていたら、ほとんど役に立たなかったのですが、ひとつだけ阿木燿子さんのサビの書き方が完璧だということを発見するんです。山口百恵さんに書いた詞はすべてよく出来てるなあと、特にサビの書き方を学習させていただきました。女性が啖呵を切る、捨て台詞を言う、これが阿木作品の要諦だと。その原理を援用させてもらって、「じれったい、じれったい、これだ!」って。そうやって書き上げました。

で、次の回のミーティングには芹澤さんも来て、実際に歌詞と合わせて歌うことになったんです。でも、芹澤さんは「半年も前に書いた曲だから覚えてないよ」って、その場で譜面を見てギターを弾いてました(笑)。最初は「じれったい」の譜割りもちょっと違ってたりしてたけど、10分後にはひとつの楽曲として完成しました。芹澤廣明さんは作曲家としてはまだ無名でしたが、何か大物の風格を既に漂わせてましたね。その日が、後にチェッカーズの曲でも組むことになる、「運命の男」芹澤廣明さんとの出会いでもあったんです。

「少女A」が大ヒットした時は、すごく嬉しかったけど、自分としては「ワーイ」っていう感じじゃなかったね。友人や親戚、社会人チームでやっていたアメフトの仲間とか、テレビで名前を見たりして「ワォ!ワォ!」なんですよ、もちろん。でも自分はそこまで喜べるかなっていう気分だった気がします。このヒット一発だけのまぐれだからっていう感じでしたから。次のヒット曲が書けない限りは職業作家になれたわけじゃないと、シビアに冷静に受け止めてました。浮かれちゃいけないと自制していたんだろうね。

だって、アイドルの歌詞を書いたのは初めてなんだから。ただマネージャーに言われるまま、チラシ1枚しかない資料?を見ながら机に向かって書き、LP(アルバム)に入るかどうかっていう曲だったから(微笑)。シングルとして書いたわけじゃないから。その頃は書いても半分以上がボツになっていたんです。その時も、ボツになるかもしれないと思っていたら、LPに入ることになってオケを録音したという連絡が来て、多少の書き直しの注文があり、その後で突然、シングル候補になっていると聞かされ、まさかシングルにはならないだろうと思っていたら、最終的にはシングルですと、、、、何段階かがあってシングル曲になった楽曲です。それは夢みたいなことなんだけど、まあ、そういう好運も人生にはあるよねと思っていただけで(微笑)。作品がすごく優れているとは特に思っていなかったんです。運の強い楽曲だとは感じていましたが。。。。

シャネルズ(後のラッツ&スター)や伊藤銀次さんはスタッフのように、仲間のようにしてやっていたんで、キャッチボールをしながら詞を書いていたからボツになることも無かったんです。当時はマッドキャップという事務所に所属していて、そこのマネージャーがとってくる仕事の中には、コンペみたいな中で、ボツになる仕事も多かったんです。でも、「少女A」の時は、LPに収録する候補曲の中から、シングルにまでなったスペシャル・ラッキー・ナンバーなんですね。

「少女A」は特殊なヒットというか…雑誌の記事などで取り上げられたり、社会的に広がりが多少見えてきて、良い面も悪い面もあるんだけど…すごい作詞家が出てきたと捉える人もいたり、特殊過ぎて、キワドすぎて、企画モノみたいな捉え方をした人もいたでしょうし、そんな作詞家には興味はあっても、先頭をきってまっさきに仕事を頼む勇気がなかったみたいで、思ったほど仕事の依頼が来なかったね。「少女A」はそういう意味でも、体制の外側にいたんじゃないかという気がします。楽曲も2人の作家も業界のアウトサイダーだったんですね。だから、爆発的なヒットなのに次の仕事がなかなか無かったんだ。そんな中で、レコード会社やプロダクションの方が3人だけ、会いに来てくれたり、詞を依頼してくれたりしたんです。
その方々の顔は忘れもしませんし、いまでも感謝してます。

その次の年になって、河合奈保子さんの作曲をすることになった筒美京平さんが声をかけてくださって(「エスカレーション」1983年6月1日発売)、そこからですね、職業作家として勢いが出てきたのは。

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